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【歴史】ミャンマーの政治経済と軍事政権|過去から学ぶ

こんにちは、ススムです。

今回はミャンマーの過去の政治経済から学ぶ軍事政権について紹介します。

現在起こっている国軍によるクーデターで、なぜミャンマー国民はデモを起こすのか?その背景に焦点を当てたいと思います。

この記事を書いた人はこんな感じです。⇩

著者

  • 2018年にミャンマー、ヤンゴンに到着
  • 日本・現地の語学学校にてミャンマー語学習(4ヶ月)
  • 現地の学校にて2年間ミャンマー語での指導(現地人との会話を通してスキルアップ)
  • ミャンマー国内数十ヵ所の地を旅行
  • ミャンマー語基礎会話・読み書き・専門用語の取得
  • ヤンゴンの学校でスポーツ指導(ミャンマー語)
  • オンラインで国際協力

※この記事を書いている私について詳しくはこちらで紹介しています。

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【ミャンマーで起こったクーデターとデモ】

【ミャンマーで変わった価値観】

【ミャンマーでの出来事】

【ミャンマーのスポーツ事情と教育】

本記事の内容

・ミャンマーの政治経済と軍事政権

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ミャンマーの政治経済

ミャンマーの歴史を簡単な年表で振り返ってみます。

歴史年表

・1947年:イギリスがビルマ独立に同意したが、7月19日アウン・サン将軍が暗殺される

・1948年:ビルマ連邦が独立

・1962年:ビルマ国軍によるク-デタ-(軍政)でビルマ式社会主義ネ・ウィン議長

・1972年:ビルマ連邦社会主義共和国が誕生し、表面上は民政移管となり、ネ・ウィンが大統領へと就任する

・1988年:全国的な民主化要求デモにより26年間続いた社会主義政権が崩壊。国軍がデモを鎮圧し、国家法秩序回復評議会を組織して政権を掌握

・1990年:総選挙が実施され、アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したが、政府は政権移譲を拒否。アウン・サン・スー・チー氏率いる民主化勢力は軍政による厳しい弾圧を受け、2010年までの間、3回、計15年に及ぶ自宅軟禁

・2005年11月7日:ミャンマー政府は、首都をヤンゴンからネピドーへと変更

・2007年9月:全国的な僧侶のデモが発生

・2008年5月2日:サイクロン・ナルギスがミャンマー南西部を直撃

・2010年11月7日:総選挙が実施され、国軍出身者が率いる連邦連帯開発党(USDP)が勝利し、アウンサンスーチー氏率いるNLDは総選挙をボイコット

・2011年3月30日:テイン・セイン大統領率いる政権が発足。ビルマからミャンマーへと国名変更し、民政移管が実現。テイン・セイン政権は、政治犯の釈放、報道の自由化、少数民族武装組織との停戦交渉等を進め、民主化と経済改革を推進

・2015年11月8日:総選挙にて、アウン・サン・スー・チー議長率いるNLDが大勝

・2016年3月30日:アウン・サン・スー・チー氏側近のティン・チョウ氏を大統領とする新政権が発足し、アウン・サン・スー・チー氏は、国家最高顧問、外務大臣及び大統領府大臣に就任。ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民の大多数の支持を得て誕生した新政権は、民主化の定着、国民和解、経済発展のための諸施策を遂行

・2020年11月8日:総選挙にて、アウン・サン・スー・チー議長率いるNLDが再び大勝

・2021年2月1日:首都ネピドーにて、国軍によるクーデター発生(アウン・サン・スー・チー氏及びNLD関係者の身柄拘束)

ミャンマーの軍事政権と歴史

ミャンマーで起こった軍事クーデターは今に始まったのではなく、過去にも何度かありました。

1958年に、当時の首相ウーヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで暫定内閣が組閣されました。

そして、1962年3月2日にネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし「ビルマ社会主義計画党」を結成して大統領となりました。この時を「ビルマ式社会主義」と呼びます。

1974年に、ビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは二期目の大統領に就任しました。1981年にネ・ウィンが大統領を辞した後も1988年までは軍事独裁体制が続きましたが、経済政策の失敗から、深刻なインフレが起こり、ミャンマーの経済状況は悪化しました。

1988年には、ソウ・マウン国軍軍事司令官率いる軍部がクーデター起こし政権を掌握しました。軍部は国民統一党を結党し体制維持を図りました。

民主化指導者のアウンサンスーチ氏は、国民民主連盟(NLD)を結党しましたが、選挙前の1989年に自宅軟禁されました。アウンサンスーチ氏は解放と軟禁を繰り返します。

2003年8月に、キン・ニュンが首相となり民主化へのロードマップを発表し、保守派と対立し自宅軟禁されました。その後、保守派のソー・ウィンが首相に就任。

2007年10月12日にソーウィンが死去すると、軍出身のテイン・セインが首相へと就任しました。そして、軍政主導の政治体制の改革が始まり、新憲法が実施されました。

2010年11月には、新憲法に基づいた総選挙が実施され、アウンサンスーチ氏の自宅軟禁も解除されました。しかし、2011年の民政移管後も連邦議会の4分の1の議席をあらかじめ国軍に割り当てる事や、最も権力のある省庁を支配する権限を憲法で保証される事などによって裏から政治権力を維持し続けました。

2015年11月8日、民政復帰後で初めてとなる総選挙で、NLDが圧勝し、アウンサンスーチ氏が大統領就任を要求したが、ミャンマー連邦共和国憲法の規定と国軍の反対によって出来ませんでした。

そこで、側近のテイン・チョーを大統領とし、ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、軍関係者による統治が終わりました。

アウンサンスーチ氏は、国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握りました。

ミャンマーの歴史を説明しているこちらの本もおすすめです!

【ミャンマー政変】

【アウンサンスーチーのミャンマー】

【ミャンマーの歴史教育】

まとめ

ミャンマーでの政治体制や経済施策にはこの様な歴史がありました。

質問などがあれば気軽にコメント下さい。

以上が今回のブログとなります。

読んで頂きありがとうございます。

また次回お会いしましょう。

それではタッター

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